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げらくいんにゅうおん
十三代住職の快楽院柔遠
柔遠(1742~1798年)は著名な学僧としられました。柔遠は字を子帰、柳渓と号し、快楽院は諡院号です。宇奈月町浦山の善功寺の僧鎔に師事し、門人として僧鎔が創設した空崋盧という学塾を師亡き後、引き継いで、その地を浦山から高柳に移し、多くの学僧を輩出しました。この学派は空崋轍または空崋学派と呼ばれ、柔遠の系統を「越中空崋」と称し、同じく僧鎔の弟子であった河内国(大阪府)の道隠の系統を「堺空崋」と称して、明治初年まで西本願寺の宗学の主流的な役割を果たしました。
京都の大谷本廟の後ろに勧学谷という墓所が在り優れた学僧たちが安置されている中、勧学谷正面中央に僧鎔、向かって左に柔遠、右に道隠の三つの墓碑が並んでいます。このことからも三人の師弟が宗学に与えた影響の大きさを伺い知ることができます。
しき
りゅうけい
しいんごう
そうよう
くうげろ
くうげてつ
どうおん
註)字は、文人・学者が本名以外に付ける別名。
註)院号は、法名の中で、最上の尊称。
註)諡院号とは、死後に奉る、生前の自績への評価に基づく名前。
ご本尊様
滑川市の指定文化財に登録されており、明楽寺において所蔵されています。
柔遠自筆稿本
あざな
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